第1章 オランダ概要
第1章 オランダ概要
オランダへようこそ
Welkom in Nederland
- 正式名 : Koninkrijk der Nederlanden
- 公用語 : オランダ語
- 総国土面積: 33,800平方km(九州38,061平方km、関東地方32,413)
- 位置:最北端:北緯53°52′ 5″(ロットマルオーフ島)
- 最南端:北緯50°45′ 5″(ファールス/マーストリヒト付近)
- 人口 : 17,861,351人
- 首都 : アムステルダム (人口 918,117人)
- 政府所在地: デン・ハーグ (人口562,839人)
- 通貨 : ユーロ (EUR)
出典:オランダ中央統計局ホームページ (2023年5月) www.cbs.nl
1.国土と人口
オランダは北海道よりも更に北にあり、樺太と同じ北緯に位置します。高緯度のため、夏と冬の日照時間の差が非常に大きくなります。
景観として顕著なのは、山や起伏のない平坦な土地と国中に張り巡らされた運河でしょう。
「低地王国」の名の通り、オランダは国土の約25%が海面下に位置しています。「世界は神が創り賜うたが、オランダはオランダ人が造った。」という有名な言葉がありますが、この海面下に位置する土地は、すべて13世紀以来続けられてきた大干拓事業により、オランダ人の手で造り出された土地です。この干拓により生まれた土地はポルダー(polder)と呼ばれ、現在では、牧草地や農地、森林などに活用されています。国土の約60%が農地です。また、運河は水上交通に利用されるほか、水位の調節という重要な役目を担っています。
オランダの最高地点はマーストリヒト市の東南にあり、海抜322,5です。そこはDrielandenpuntと呼ばれ、オランダ、ベルギー、そしてドイツの3国を分かつ国境地点に位置しています。この地点を一回りすると数秒で上記3国に足を踏み入れたことになります。
また、オランダの人口密度は1平方キロメートル当たり523人(Dec.2022)と高い国ですが、山がなく平坦な地形のため有効面積は多く、比較的ゆったりとした印象を受けます。
オランダ西部のアムステルダム、ロッテルダム、ハーグの3市を結ぶ三角形の地域は「ランスタッド」と呼ばれ、人工の60%以上が住む都市圏で、外国人コミュニティーは、国籍に関わらず、新しく移り住んできた外国人に様々な施設や活動を提供しています。
2.気候
日本よりもずっと北に位置しているにもかかわらず、メキシコ湾流のお陰で、オランダの冬は比較的マイルドです。ただ、海岸部では、北海からの強風を受けて厳しい寒さを感じることがあるでしょう。運河に氷が張り、時にはスケートのできるような寒さもあります。
降水量は年間平均770mmと多くはないのですが、降雨日は200日近く、特に冬は多くなります。夏は、湿度の低さも手伝って、高原のような爽やかさがあります。
平均気温
出典:www.knmi.nl
中央気象観測所(De Bilt、2022年)
年間平均気温:11.6℃ (1990年から2022年の平均気温、10.5℃)
2022年の気温(冬のみ2022-2023)単位は摂氏
冬
(12-2月) |
春
(3-5月) |
夏 (6-8月) |
秋 (9-11月) |
|
平均 | 5.8 | 10.2 | 18.6 | 12.1 |
最低 | – 10.6 | -6.6 | 2.9 | -8.8 |
最高 | 17.6 | 31.3 | 39.5 | 32.0 |
3.歴史
オランダの始まりは、今から6000年程前頃、マーストリヒト周辺に焼畑農業を営む人々が移り住み始めました。4500年前頃には、ドレンテ州を中心に他の農耕民も移り住み、特に彼らは巨石を使って石室墳を造りました。現在もフネベット(hunebed)と呼ばれその石室墳が残っています。http://www.hunebedden.nl/
東方からは牧畜民がオランダ東部へ移り住み、土器を使用していましたが、3500年程前になると青銅器も使われ始め、交易が盛んとなりました。2500年程前には、マース川の南部に鉄器を使う人々が移り住み、また、オランダの北部ではフリース族が、テルプ(terp)という人工の丘を築き、水の浸入にそなえた住居を建て、牧畜を行っていました。
2300年程前、イタリア半島を統一したローマがガリア人らと戦いながら、各地に軍道、基地を築きヨーロッパの大部分を領土としました。
それにより、軍道や運河を作るローマの高い技術や進んだ農業は各地に広がり、人々は定住し、農業を営み、基地に住むローマ人のために、ワインや必需品を作る手工業、それを運ぶ商人などが出て市場が始まりました。そして村が生まれ、ユトレヒトやナイメーヘンなど、今の都市の基が造られました。紀元前1世紀ごろのオランダが位置していた地域はローマ帝国の支配下にありました。
4世紀後半からゲルマン民族の大移動とともにローマ帝国は東西に分裂し、その後5世紀には西ローマ帝国は滅びました。オランダの地域は、西ヨーロッパをまとめていったフランス王国の一部となりました。
9世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)時代にはオランダ南部はキリスト教に帰依し、ユトレヒトやネイメーヘン、マーストリヒト等の都市がその普及の拠点となりました。
中世のオランダでは各県を治めるために派遣された諸候が大きな力を持つ領主となっていき、13、14世紀までの間に自由な商工活動と自分たちの権利を守るための都市法を持った自治的な中世都市が各地に生まれました。この頃、低地地方の中継貿易の中心地であったアムステルダムは貿易港として大きく発展しました。
16世紀半ばにルターの提唱した宗教改革運動は、オランダにも急速に広まり、ハプスブルグ家との婚姻関係によりこの地を手に入れ、支配していたスペイン帝国はこの運動を弾圧。そのことが抵抗独立運動の一因となり、スペイン軍の弾圧に対抗したオランニェ公ヴィレムらは、1568年にスペインとの「80年戦争」に突入。その結果1648年にオランダ共和国の独立が認められました。
独立戦争中も1602年の東インド会社(VOC – Verenigde Oostindische Compagnie)設立等、17世紀前半は海外雄飛、商工業発展によるオランダの全盛期、いわゆる「黄金時代」でした。しかし後半から、イギリス等との競争に破れて衰退していきました。
1795年には、ナポレオン統治下のフランス帝国に併合されましたが、1815年にウイレム一世を元首とし、ベルギー地方を含むネーデルランド王国として独立しました。その後、言葉や宗教の違いなどから、1839年にベルギー、1867年にルクセンブルクがそれぞれ独立し、現在のオランダが成立しました。
第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間オランダは中立を守りましたが、1940年5月、ドイツが中立条約を無視して占領し、国全体に大きな痛手を受けました。
また、蘭領東インド(インドネシア)では日本軍の占領によってオランダ人やオランダ系インドネシア人が強制収容所生活を強いられ、インドネシア独立後は多くの人達が本国に引き揚げて来ました。
戦後は中立主義を捨てて、48年にベルギー、ルクセンブルグとベネルクス関税同盟を結び、49年には北大西洋条約機構(NATO)に、57年には欧州経済共同体(EEC)の設立に加わりました。オランダはEECに加え欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC-52年)、欧州原子力共同体(EAEC-58年)の創設メンバーでもあり、この3共同体が1967年に整備され、欧州共同体(EC)に合流しました。
1991年12月にはリンブルフ州都マーストリヒトでオランダを議長国とするEC首脳会議が開かれ、ECの政策及び通貨統合が合意に達しました。翌年2月7日には上記の統合が盛り込まれた「マーストリヒト条約」にEC各国の経済相と外務相が署名し、オランダは1992年12月15日にはこの条約の批准を完了しました。こうして欧州同盟条約(マーストリヒト条約)は1993年より発効し、ここに欧州連合(EU)がスタートしました。1999年1月1日、加盟国11ヶ国の銀行間決済が欧州通貨「ユーロ」で行うことが出来るようになり、2002年1月1日からは、現金通貨としてのユーロ流通が始まりました。
4.政治
オランダは1581年に共和国として独立宣言をしていますが、1815年にネーデルランド王国として王制を導入して以来、オランニェ・ナッサウ家を王家として擁した、立憲君主制をとっています。現在の元首は7代目のヴィレム=アレクサンダー国王(King Willem-Alexander 即位2013年4月30日)です。
国会には上院と下院があり、上院は全国12州の代表による間接選挙によって選出され、任期4年の議員75名で構成されています。
下院は、18歳以上の有権者の直接選挙によって選出され、同じく任期は4年の150名の議員から成っています。
また、国会の諮問機関として国王を議長とする枢密院があり、24名を最大限とした終身メンバーで構成されています。
行政権は首相を長とする内閣にあり議会に対して責任を負います。閣僚は国王によって任命されます。司法権は国王によって任命された裁判官にあります。
地方行政は州(province)と日本の市町村にあたる自治体ヘメーンテ(Gemeente)から成り立っています。州議会(Provincial Council)議員は直接選挙によって選出されます。州知事の任期は6年で国王より任命されます。自治体議員も直接選挙で選ばれます。自治体の選挙権は18歳以上のオランダ市民全員に与えられ、オランダに合法的に5年以上滞在している外国人にも選挙権が与えられます。
オランダは12の州に区分され、各州に州都があります。これは、日本の県と県庁所在地とに該当すると考えてよいでしょう。
各州は、地方行政区としてのヘメーンテ(Gemeente)に分けられ、日本の市に相当します。ただ、多少概念の違いがあり、地理的な意味は殆どありません。例えばスキポール空港はハーレマーメヤ市にありますが、この市の名前は住所にも書かず、地図で探そうと思っても至難の業で、住人でさえ自分の市の名前を知らない人が居ます。名前は知らなくてもGemeente の役所が何処にあるかは知っています。あくまでも一番市民に身近な行政区分、と思って下さい。
オランダの都市の中には、オランダ語と英語での表記が異なるものや、オランダ語での表記が2種類あるものがあります。
例: ハーグ (Den Haag, ‘s-Gravenhage, The Hague)
デンボス(Den Bosch, ‘s-Hertogenbosh)
フリッシンゲン(Vlissingen, Flushing)
5.産業
アムステルダムを出て数分もしないうちに、広大な牧草地が目に入ってきます。牛や羊、馬などがゆったりと草を食み、その向こうには、じゃがいも畑や小麦畑が果てしなく続きます。アールスメーアやエンクハウゼンに近い地域では、花卉球根の栽培が盛んで、温室がずらりと立ち並ぶ光景も目につきます。農業人口は全就労人口の6%ですが、酪農や農業は盛んで、農業製品は全輸出額の20%に上り、国家経済の基盤をなしています。
一方、第2次世界大戦後、盛んな設備投資により、鉄鋼や重化学、石油精製等の工業が発展し、今では全輸出の半分以上を工業製品で占めています。天然資源にも比較的恵まれ、北部フローニンゲン州に天然ガスが産出し、北海の石油と合わせて、エネルギーはほぼ自給できる状態にあります。
またインフラストラクチャーの面では、世界最大のロッテルダム港を抱え、拡張を続けるスキポール国際空港も、貨物の取り扱いではヨーロッパ第四位を占めます。
縦横に巡らされた水路は輸送路としても活用され、ライン川を遡ればドイツ工業地帯を通過しスイスまで行けます。高速道路と鉄道網も良く発達しているため、運輸はオランダ経済に大きな位置を占め、オランダはヨーロッパ大陸の流通拠点、つまり「ヨーロッパの玄関口」としての役割を担っています。
<基本的なビジネス習慣>
面会する場合は、必ず事前にアポイントメントを取ります。オランダ人は突然の訪問者を歓迎しない傾向があります。急なアポイントメントもなるべく避けるのがよいでしょう。
相手が初対面でファーストネームを使った場合を除き、相手から要請がない限りはファーストネームを使わないのが通例です。
名刺は初対面の時に交換します。オランダ人は名刺に学位や資格を明記します。また、オランダ人はビジネスでも社交でも時間厳守を尊重し、相手にも時間厳守を期待します。オランダ人は昼食にあまり長い時間をかけず、残業はしないことを一般的な原則としているので、勤務時間後のビジネスのアポイントメントはあまり好まれません。ビジネス上の会食は午後6時半から7時半頃と比較的早い時間で行われます。
秘書の誕生日のプレゼントには、花束かチョコレートが無難。自分の誕生日には、オフィスの人達にケーキを配り、コーヒータイムなどに所属部署のメンバーと一緒に食べるのが通常です。
オランダ人は、仕事の後に職場の同僚と付き合うことをあまりしません。家庭と仕事は全く別のものとされています。因って、仕事関係で知り合ったオランダ人の家庭に招待されることは、個人的に受け入れられたことになります。
6.文化
オランダの特徴として、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教、中立主義、人道主義など信仰や主義主張によって団体を作り、一種のタテ割社会を築いている点が挙げられます。
政党、労働組合、マスメディア、教育、各種クラブ、住宅供給組合、病院、ボランティア活動等々多岐に亘ってそれぞれのグループを形成してきました。
最近ではこの縦割社会は急速に崩れてきていますが、その影響力は決して小さなものではないようです。
教会離れ、宗教離れが進んでいると言われて久しいこの国ですが、カルヴァン主義をバックボーンに質実剛健な国民性を育み、またそれに育まれた文化・芸術には、味わい深いものがあります。
16世紀には人文主義者エラスムスが大きな影響を及ぼし、17世紀に黄金時代を迎えてからは、法学者グロチウス、科学者フイゲンス、ファン・レウエンフック、地図の製図者ブレウやホンディウス、作家のP.C.ホーフトやフォンデル、哲学者スピノザ、画家のレンブラント、フェルメールなど著名な文化人を輩出しました。
また、19世紀の作家ムルタトゥーリ、画家ゴッホなどが優れた作品を遺しました。オランダ文化は、現代に入ってからも新しいものを次々に生み出し、世界的に高い水準を誇っています。
<日本とオランダ>
日本とオランダの間では、1600年4月19日、九州の大分県臼杵湾に、1隻のオランダ船がたどり着きました。この船は1598年6月にロッテルダムを出帆した5隻の帆船の内の1隻、デ・リーフデ号(De Liefde)です。船隊は南アメリカを目指していましたが、途中嵐や困難に合い、他の4隻は引き返したり、沈没してしまいます。
その当時の日本は1543年にポルトガル船が種子島に漂着し、1592年にはスペインが日本との交易を始めていました。これに伴い、ポルトガル、スペインの宣教師たちがキリスト教を広めるために続々と来日しましたが、1613年キリスト教禁止令が出でると日本から追われてしまいます。オランダは、キリスト教と交易とを切り離して考えていたため、幕府にとっては好ましい存在となりました。
1607年、オランダ東インド会社(VOC)の船13隻が東洋に向けテクセルを出発。1609年、その内の2隻がオランダ総督オラニエ公マウリッツの将軍徳川家康に対する日本における貿易拠点の設置許可を求める書簡を携え、平戸に到着。使節は好意的に受け入れられ、1609年8月24日、将軍家康により通商許可証(朱印状)が発行されました。
その1ヶ月後、平戸にオランダ貿易拠点、商館が築かれ、その後2世紀もの間鎖国を行う日本にとってオランダが貿易を許された唯一の国となり「西洋の窓」となりました。
平戸の商館は1641年5月には、長崎出島へ移転。これによって、33年間の平戸オランダ商館の歴史に幕が下ろされました。
1823年、長崎出島のオランダ商館の医師として日本にやってきたシーボルトはドイツ人でしたが、彼が持ち帰った当時の日本の文物コレクションは、ライデン国立民族博物館に保存され、又その一部はシーボルトハウス(シーボルトが1832~1840の8年間過ごした家www.sieboldhuis.org/)で、2004年11月から一般公開されます。
また、オランダ最古のライデン大学(1575年設立)には、江戸時代から日本学部が存在し、日本庭園(www.hortusleiden.nl/)もあり、シーボルトの持ち帰った植物を見ることができます。
参考:江戸時代の日蘭交流http://www.ndl.go.jp/nichiran/chronology.html